すべての人を照らすまことの光!(ヨハネ福音書1:6~18)

vol.62サンクチュアリ三代圏教会聖書・ヨハネ福音書1:6~18解説(6)便り!

 

聖書・ヨハネ福音書解説(6)
ヨハネ福音書1:6~18
 
今月のスローガンは
〈正午定着!起きよ、光を放て〉
暗闇は恐怖や不安の原因となり、光は行くべき道を指し示し、暖かな安らぎを与える。
聖書はこの世は闇だと云う。
人間の歴史は実に闇であるサタンに強いられてきた。
しかし、神がメシヤを遣わすという一条の光が闇の中に輝いている。
今、私たちは神の光が照らされている亨進二代王の傘下に導かれ、まさに光の中に歩む特権が許されている。
この限りない恩寵に感謝して、お父様の語られた正午定着を意識し、影の無い生き方、すなわち光の中を歩む者、さらには、光を放つ者となれるよう、み言を携え、心情を整え、威風堂々と歩んでいきたいものである。
 
    さて、第1章についてはヨハネ福音書の論点の発端となるゆえ、少し詳細に聖句を取り上げてみることにする。
キリスト教義的になり、やや退屈な感がが否めないかも知れないが、今後「夜の神様、昼の神様」を理解する上で重要な部分なので、まずはご一読願いたい。
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〈すべての人を照らすまことの光〉
[略解]
〈ヨハネ1:6~10〉
〈ここにひとりの人があって、神からつかわされていた。
その名をヨハネと言った。 
この人はあかしのためにきた。
光についてあかしをし、彼によってすべての人が信じるためである。
彼は光ではなく、ただ、光についてあかしをするためにきたのである。

すべての人を照すまことの光があって、世にきた。 
彼は世にいた。
そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。

    イエス様出現の前に洗礼ヨハネが現れる。彼はユダヤの人びとに罪の悔い改めを求めた。彼はイエス様について知らない人々に、イエス様を紹介し、証言する使命があった。
その洗礼ヨハネが証しをはじめたとき、ロゴス・イエスはすでにこの世に来ていた。
洗礼ヨハネは光ではなく、光であるイエスを証しする者であった。しかし闇におおわれ、やがて後には闇の中に消えてしまう存在になってしまうのである。
ロゴスの光はいつまでも光り続ける「まことの光」であって、その周囲だけでなく「すべての人を照らす」のである。
この光がいまやこの「世にきた」、もしくは「来つつあった」のである。

〈ヨハネ1:10~11〉
〈彼は世にいた。
そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。〉
まさに、この時、神の独り子救世主を人類のもとに遣わされた待ちに待った待望の時代圏だったのである。
しかし、〈「世」は彼を知らずにいた。彼を受け入れなかった。〉
真のお父様と重なり合わせ、同時性として無念の心情でお読み下さることをお願いしたい。

光(ロゴス)と「世」との間には、切っても切れない関係がある。
光(ロゴス)は初めから存在していたお方であり、「世」の創造の媒介者である。
しかるに〈世は彼を知らずにいた。〉
すなわち、「この世」は彼の何であるか、自分との間にどのような深い関係があるかについて、知らないでいた。
(注)ヨハネは神と世を対立概念として捉えて話を進めている。
 
〈ヨハネ1:12~13〉
〈しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。〉
少数ではあるが、彼を信じる人がいた。それらの人々に対して、彼は実に恵み深い、尊い存在であった。
彼らは〈神の子となる力を与えられた。〉それが新生(重生)である。(3:1以下)
「神の子」は、信仰により神から新しく生まれて神の国にはいる資格を授けられた者、キリストとともなる神の国の相続人(エペソ3:6)、神の家族である(エペソ2:19)。
この新生は神の恵みであって、人間の誕生とは異なり、神の一方的な恵みにより、 神によって新たに生れたのである。
再臨のお方を迎えた今、〈神の子となる力を与えられた〉とは祝福という大いなる特権を授かったことであろう。

〈ヨハネ1:14~18〉
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。
わたしたちはその栄光を見た

それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた
ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。 
律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである
 神を見た者はまだひとりもいない。
ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである

   言(ロゴス)の受肉を謳ったヨハネ福音書の中心的発言。
ロゴスが肉体をとったというのは、この世では見られない奇跡。
創造主の超越的なロゴスが、それと相いれない肉となり、人間となってこの世に来られたことは、そこに人間を救おうとする神の強い意志があらわれている。
神の子が肉となって、この世に来られたところに福音がある。
人間を救うためには、人間となった神の働きが必要である。

〈わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。〉

1:17になってはじめて、イエス・キリストという呼称が出てきて、旧約の代表者モーセと対照されている。
モーセは律法をイスラエル民族にもたらした。
イエス・キリストは、恵みと真理の具体化であり、その受肉者である。
イエスのうちに満ち満ちている神の知恵と力と愛がある。

この第1章の中心題目は、「言」(ロゴス)であり、「言」が肉をとって歴史の中に現れたことである。
「言」は永遠なるもの、神とともにあり神であった。
その「言」が歴史の中にはいってくることにより、人間との関係が打ち立てられた。
それは、言の受肉によってである。
このようにして、命と光とがこの世に現れ、信ずる者はすべて「神の子」となる力が与えられた。

しかし人間の歴史は「やみ(闇)」が支配している。
「やみ」は光に逆らい、信じようとしない。選民ユダヤ人は、イエスを十字架にかけた。
しかし終局の勝利は、信仰にある。
イエス・キリストは「めぐみ」と「まこと」である。
神の栄光はイエスにおいて輝いている。

このようにして第1章は、相対立する概念をもって構成され、対立に終始している。
しかし「やみ」は光に打ち勝てず、死は生にのまれる。その歴史が本来の福音において述べられている。
『わたしは光としてこの世にきた。
それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。』ヨハネ12:46
 
参考[聖書略解]
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〈1:18神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。〉
ひとり子なる神=真のお父様、すなわち私たちはどれほどのお方につながっていたのでしょうか?あまりの壮大な神様の恩賜の前に、この聖句は心に響き心から敬服するものです。
まさしく『夜の神様、昼の神様』について、亨進ニムは

「私は夜の神様から、お前たちは昼の神様から出てきた。」と言われたみ言葉を易しく説明すると、私たちは母の子宮を借りて生まれますが、真のお父様は神様の種、すなわち「精子」から出て来られたことを意味します。

アダムとイエス様と真の父母様すべてが「神様の種」でしたが、この種がすべて完成した木になって実を結んだのではなく、ただ「天地人真の父母勝利解放完成時代」を開いてくださった真の父母様だけが木となられて全世界を実で覆ってくださったのです!

夜の神様、昼の神様をどのように理解するかによって、私たちは、キリストを正しく認識するようになり、真のお父様がどのようなお方であられるのかを正確に見るようになるでしょう。

と説明してくださっています。
ゆえにキリスト・イエスと再臨のメシヤ・真のお父様と重ね合わせながら聖句をひもといて下さるなら、まさに真のお父様がどのようなお方であられるのか、まことにまことに胸打つものがこみ上げてくるのです。
サンクチュアリ三代圏教会
        教会長    平井   松夫